世代間負担論の到達点 - 経済を良くするって、どうすれば

結局、「世代間格差」なるものは、少子化の大きさを示しているだけなのである。加藤先生の本のP.31には、世代間不均衡の国際比較が出ているが、不均衡の大きい日本、イタリア、ドイツは、少子化の国であり、その激しさの順に並んでいる。不均衡の小さい米国、フランスは、少子化のない国だ。巨額の財政赤字を抱える米国がドイツより小さいのは、人口が増えているためである。

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前置きが長くなった。世代間負担論の到達点は、次のようなものだ。第一に、賦課方式は、長寿化について「フリーランチ」が得られるということである。それゆえ、長寿という人類にとっての福音がもたらされたときに、賦課方式の選択によって社会保障制度が整えられたのは当然のことだった。

第二に、少子化にならない限り、負担が給付を上回る「損」は出ないということだ。これは、「損」は、すべて少子化に原因があるということでもある。そこから、原因者負担の観点に立って、「損」は少子化を起こした者、すなわち、子供を持たなかった者が、すべて負うべきだという論理が出てくる。ただし、これは、理屈としては正しくても、社会常識からは外れている。筆者も、特に女性に説明するときには、慎重にしているところだ。

第三に、「損」の原因が少子化にあるのだから、賦課方式における給付と負担の均衡は、子供を持たない者に給付をしないことにすれば、達成できるということだ。親世代を子世代が支える賦課方式において、支える者のない「子供を持たない者」に給付しなければ、給付と負担が均衡することは、容易に想像できるだろう。「損」の発生は、少子化で細ってしまった子世代に多くの負担させたり、細った子世代を助けるために、少子化を起こした世代の給付を少なくしたりするために起こる。

第四に、もし、子供を持たない者にも給付をするのであれば、負担と給付を均衡させるには、子供を持たない者に「二重の負担」を課す必要があるということだ。子供を持たない者には、支える子世代がいないのであるから、その代わりに「二重の負担」をしてもらい、「積立金」を用意してもらわねばならない。子供に頼れない人には、貯金を用意してもらうという、普通の論理である。この場合、子供を持たない人の年金保険料は2倍となる。


(後半・今日の掲載分)
第五に、年金制度における最適な積立金の総額は、子供を持たない人の人数に従って、算定できるということである。例えば、少子化がなければ、年金積立金はゼロで良いし、逆に、誰も子供を持たなくなってしまったら、全員が「二重の負担」をしなければならないということになる。まあ、次世代がゼロ人では、貯蓄をしても無意味だろうが。

これによって計算される、子供を持たない人の分だけの最適な積立金の総額は、全員が「二重の負担」をする積立方式への転換で必要とされる総額より遥かに小さいものになる。激しい少子化を起こした団塊ジュニア世代は、まだ社会の中堅なので、直ちに2倍の負担をしてもらえば、今から最適額を確保することもできなくはない。

第六に、年金の賦課方式から積立方式への転換は、無意味だということである。この場合、積立方式への転換とは、子供のある人も含めて、全員が「二重の負担」をすることを意味する。子供を持たない人だけが負担すればよいものを、全員が負担するのは、おかしいということだ。子供のある人にも加重負担をかけて家計を苦しくし、子供を増やすことあきらめさせるようなことになったら、目もあてられない。

また、積立方式への転換は、数理的にも、無意味なことが証明されている(例えば、小塩隆士「人口減少時代の社会保障改革」)。積立方式への転換の意図は、少子化によって発生する「損」を避けようとするものだが、そのために必要になる「二重の負担」は、本質的に同じものなのである。

しかも、「二重の負担」は、出生率ゼロに対応するものなので、常に、少子化の「損」≦ 「二重の負担」の関係が成り立つ。つまり、少子化の「損」を避けるために、より大きな「二重の負担」をしようというのは、論理の破綻でしかない。かつて盛んだった積立方式への転換論が廃れた最大の理由はこれだ。問題は、方式の転換にあるのではなく、誰に「損」を負担をさせるのかである。

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まとめてみよう。世代間の不公平を、「給付より負担が大きくなって「損」をする世代が出ること」と定義すると、その原因は少子化にあり、原因者である「子供を持たない人」に、「二重の負担」、すなわち、2倍の保険料を課すようにするか、あるいは、給付をしないことにすれば、「損」は解消されるということである。

これを聞くと、「子供を持たない人」に「損」が寄せられただけに思われるかもしれないが、老後を支えてくれるはずの子供を残さなかったのだから、その代わりに2倍の保険料を払って貯金をしておくのは、当然の義務であろう。また、子供を養育するという負担を免れているのだから、貯金をするだけの余力もあると見ることもできる。

反対に、支えてくれる子供も、貯金も残さずに、老後を迎えるということは、親世代、同世代、子世代に迷惑をかけることになる。これが「不公平」の正体である。本当は、「不公平」は世代間ではなく、子供の有無にあるのだが、世代会計論は、世代別でしか勘定しないから、それが見えないのである。

「子供を持たない人」が2倍の負担をしなければならないことは、原因者責任という観点からだけでなく、経済的な視点からも正当化できる。子供の養育という、必要な人的投資をしなかったのだから、給付というリターンが得られないのは当然と考えるわけだ。人的投資をしないで、給付を受けたければ、代わりに貯蓄をして「物的投資」をするほかない。

この2倍の負担だが、現在の年金と健康保険の保険料率は、合わせて25%ほどであるから、その2倍を負担するとなると、大雑把に言って、子供のない人の保険料率は50%にもしなければならない。大変な負担に見えるが、子供を養育している家計の苦しさも、そんなものである。そうした重い負担を免れて、平等に給付を受けるとしたら、その経済的なインセンティブは極めて大きい。

もしかすれば、この大きなインセンティブは、社会保険へのフリーライド(タダ乗り)を助長して、今の少子化の一因になっているのかもしれない。裏返せば、「不公平」を正すために、子供のない人の保険料率を2倍にしたら、それぐらいならと、結婚をしたり、子供を持とうとする人が現れるかもしれないということである。

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実際の年金制度は、この少子化による「損」に、どのように対処しようとしているのであろうか。二つあって、一つは年金積立金による対応である。団塊の親世代や団塊世代は、少子化を起こさなかったから、年金数理的には積立金を残す必要はなかったが、給付に必要な以上の保険料を払って、積立金を残してくれた。もし、出生率が1.75程度の緩やかな少子化であれば、これで対処できて、世代間の「不公平」は生じなかっただろう。

ところが、団塊ジュニア世代は、この安全ネットを突き破る激しい少子化を起こしてしまった。そのため用意されたのは、年金国庫負担という名前の税負担による対処である。税負担を増し、年金国庫負担を1/2にまで引き上げなければ、保険料を下回る給付しかできないところに追い込まれていた。これに厚労省が必死になるのは当然だろう。

こうして、保険料負担の範囲では、一応、「損」の解消は実現された。小黒さんや加藤先生は、「事前積立方式」と称して、保険料率を現行計画より引き上げることを主張されているようだが、それをすると、税負担を軽くすることにつながるものの、他方で、保険料率に見合う給付ができなくなるという厄介な問題が生じるだけに思われる。「不公平」を正そうとするなら、やはり、少子化を緩和するか、子供を持たない人の負担増・給付減をするしかない。

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世代間格差は、本当は、世代間に格差があるのではなく、世代によって少子化の度合いが異なるために、世代間に格差があるように見えているだけである。したがって、問題を解決しようと思うなら、世代間の格差を縮小しようするのではなく、少子化を緩和するか、子供の有無による不公平を正さなければならない。

最近の世代間格差の議論で気になることは、本質を取り違えているために、いたずらに負担増に走っているように見えることだ。実は、2004年の年金改革の計画では、未だ積立金を取り崩す時期ではなかったのだが、財政当局の緊縮財政によって内需が拡大せず、雇用者報酬が低迷して保険料が集まらなかったために、少子化の「損」を埋めるはずの積立金を減らす結果になった。

つまり、成長に見合わない無理な負担増は、いかに世代間格差なるものがあるとしても、結局は格差を広げるだけになる。特に、団塊ジュニアが激しい少子化を起こしてしまったのは、1997年のハシモトデフレの無謀な緊縮財政によって、それ以来、日本経済の低迷が続いていることがある。

世代間格差を解消すると称して、財政赤字の削減や年金積立金の増強を求めるのは結構だが、それによって増した貯蓄の使途、つまり、投資先まで考えないと、経済を縮小させるだけに終わる。投資先を考慮せず、ひたすら緊縮財政をやってしまうという、財政当局に特有の視野狭窄に陥ってはならないだろう。

また、貯蓄は、マクロ的には、いくらでもできるというものではない。貯蓄=投資であり、設備投資などを増していけば、労働力の限界に突き当たるからである。ただでさえ、少子化で労働力の天井は低くなっているのに、激しい少子化に見合う莫大な年金積立金=投資をしようとするのは無理がある。

日本は、1980年代からハシモトデフレまで、大規模な年金積立金の増強を行ったが、それによって消費不足を招き、それを補うのに、財政赤字を出して公共事業をすることを余儀なくされた。何ということはない、年金積立金で公共事業をしていたようなものである。無理な貯蓄をすると、経済に歪みが生ずるという格好の事例だ。

世代間格差とはつまるところ少子化の問題。
団塊ジュニア世代以降が子どもを作れるようにしていくことが重要。

世代間格差と世代内格差 - DeLTA Function

年間収入のジニ係数(この数値が大きいほど格差も大きい)を見てみましょう。高齢になるほど世代内格差が大きいことが分かります。これは有業者か否か、または厚生年金の比例報酬部分及び企業年金の違いが大きいということでしょう。一方、1999年との推移で見ると、65歳以上の世代では格差が縮小する傾向にありますが、それ以下の世代では収入格差が拡大しています。特に30歳未満の世代の収入格差が大きくなっていることが見て取れます。

以上を総合しますと、バブル崩壊後の長期不況の痛手は若い世代に集中し、高齢者世代はそれほど痛みを受けていないということが分かります。世代間格差の是正を謳うならば、年金制度等の議論よりもまずデフレ脱却策を議論すべきです。

所得税を取れない層から財源を取る=消費税という言説があるが、
正確には、
所得はないが資産を持つ層から財源を取る、であるべきだろう。

つまり、資産課税の文脈で(現実的には相続税100%なんて無理だから、弱めの資産課税として)、消費税を考えてみる。

池田信夫 blog : 消費税の増税は世代間の不公平是正に必要だ

このように貧しい若者から豊かな老人に一人あたり数千万円も再分配する世代間で超逆進的な税・年金システムを放置したまま、消費税のわずかな逆進性を議論するのはナンセンスである。所得税を払わない年金生活者が激増する高齢化社会では、彼らにも負担を求める消費税は世代間の不公平是正のために必要であり、基礎年金の財源に充当して年金財政を安定させるためにも必要だ。そして若者の負担を軽減することは、日本経済が活力を取り戻すためにも不可欠である。

見えない形で徴収されている若者税を是正するためなら、
消費税増税も有りなのでは、という話。

「冷たい福祉国家」の幻想: EU労働法政策雑記帳

武器も持たずに「てめえの顔なんか見たくもないが、さっさと金をよこしやがれ、この野郎!」といわれて、喜び勇んでお金を差し上げる奇特な人はそうそう世の中にいないということ。

福祉国家を築くには、まず共同体の形成が必要だということ。

福祉国家のモデルとされる北欧が人口の少ない国家であるということにも理由があるのかもしれない。
日本で福祉国家を実現するなら、地方~都会、老人~若者の紐帯を深めるところから。

ネット選挙と世代間の不公平: 生命保険 立ち上げ日誌

このように高齢者優先の施策が取られる理由が、若者の投票率が低いことにある。ざっくり言うと、60代の投票率が75%であるのに対して、20代は35%だそうだ。確かに自分が政治家だったら、ただでさえ人口が少ない上に投票率も低い若い人たちの言うことに、耳を傾けるインセンティブは小さい。

あえて、若者の低投票率に合理性を見いだしてみる。

彼らにしてみれば、今の制度が中途半端に温存されるより、
さっさと破綻清算されればいいんじゃないだろうか。

失われた20年=15年戦争と置き換える。
昭和初期、あるいは90年代以降に社会に飛び出した層は、
人生のチャンスのいくらかを奪われてしまった。

戦争はいやだろうが、果てしなくダラダラ続けられて、人生そのものが台無しになるより、
さっさと敗戦したほうが、なんぼかマシなんじゃないか。

そう考える人たちはいるだろう。